軍艦矢矧
(やはぎ)
軍艦矢矧殉職者之碑 大9.1.19 建立 合祀者 48柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
二等巡洋艦 (134.1) 14.2 5.1 5,000 26.0 15.2cm/45単×8, 7.6cm/40単×4, 発×3
4,400
明45.7.27竣工, 昭15.4.1 除籍
明治40年度計画, 建造所 三菱長崎造船所
明43.6.20起工, 44.10.3進水, 45.7.27竣工, 二等巡洋艦に類別
大 3~8 第一次大戦。 南洋群島占領作戦,南シナ海・インド洋・スルー海に作戦
12~昭12 中国水域警備に従事
昭15. 4. 1 除籍, 廃艦第12号と仮称,呉海兵団の練習船として使用
18 大竹に回航,潜水学校で使用,終戦を迎える
22.1.31~7.8 笠戸ドックで解体
軍艦「矢矧」(初代)は、明治45年三菱長崎造船所で竣工した5,000噸、15糎砲8門、26節の二等巡洋艦であった。「矢矧」(艦長山口傳一大佐(兵26))は、第一次世界大戦において第一特務艦隊第二南遣隊に所属し、太平洋、印度洋方面に作戦行動し、大正7年12月任務を終えシンガポールから凱旋途上マニラにおいて流行性感冒が全乗組員に感染し、惨憺たる状況となり、副長普門卯之助中佐(兵29)以下48名が倒れマニラ英人墓地に埋葬された。この病没者慰霊のため呉海軍墓地にこの〃碑〃を建立した。
第一次世界大戦中、南太平洋及び印度洋方面の警備任務を終え久振りに喜びの帰国の途についた。そのとき思いもよらぬ恐しい病魔が待ち構えていた。
大正7年11月30日シンガポールを出港直後から悪性流行性感冒が蔓延し、四日後には乗員の三分の二がおかされ、翌日は機関を扱い得る者5名、操舵員は2名となり航海当直すらも困難な状況となる。
12月6日マニラに入港し、重症者60名を入院させ、残りのものは艦内で療養につとめたが12月20日までに普門副長以下48名が病死した。
なおマニラサンヒトロ墓地にも慰霊碑が建立されている。
大正7年11月8日シンガポールに入港した際、同地に流行性感冒が流行しており、同月30日同港発、佐世保に向う途中約300名の患者を出したため、12月4日マニラに入港して重患者を入院せしめたが、同月21日までの記録では副長普門中佐ほか48名の死亡者を出した。
同艦は翌8年1月20日マニラを出港、佐世保を経て1月30日呉に帰着。2月1日海兵団で合同葬儀を執行した。海軍墓地の記念碑はその後に建てられたものと思われるが、碑表の題字及び裏面金属板は昭和23年墓碑資格審査により剥脱されたものを昭和32年10月に碑文のみ修復されたものである。
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/kurekbk/goushihi.htm |